1988年 最後の風景 青函連絡船

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  • Опубликовано: 25 ноя 2024

Комментарии • 8

  • @tdfuh003
    @tdfuh003 4 месяца назад +2

    この番組は初めて見ました。貴重な映像、ありがとうございます😊!

  • @ELX--cq7ev
    @ELX--cq7ev 4 месяца назад +1

    数十年ぶりにこの番組を見ました。
    釜谷さんの模型のあとに流れるあの曲は感涙ものです。
    CMカットされてますが、このあとはハウスシチューだったはずです。

  • @iroshioshida263
    @iroshioshida263 4 месяца назад

    ありがとうございます。

  • @三丁目分隊員
    @三丁目分隊員 3 месяца назад

    28分頃に登場した八甲田丸の柴田駿之助船長は、1988年夏季のアンコール運航で十和田丸船長を務められた方です。
    営業運航が終わり「最後の函館行」となった回航5011便の出航では、操船指揮を取りつつブリッジの横窓でずっと手を振っておられましたね。

  • @清水浩一-y4s
    @清水浩一-y4s 4 месяца назад +3

    昭和の番組感ありありでいいなあ😊

  • @shimshim1973
    @shimshim1973 Месяц назад

    今のリストラの最先端をいっていたのが国鉄です。
    というか、始まりだったんですね
    廃止から、バブル期があり好景気になり、バブル弾けてリストラが始まり
    今は、普通になってしまいました。
    なんか職員の話を観ていたら切ない気持ちになりました。
    当時、国鉄は余剰人員を抱えていたと言われてますが、戦争が終結した後、シベリア送りになり10年後位に
    帰還出来きた人達の受け入れになっていたのです。なので、労組との対立が激化してしまったのだと思います。
    中曽根も、労組潰しの為に民営化したと話をしています。
    石破さんは、中曽根の身代わりになった田中角栄さんの国民の為の仕事を取り戻し
    中曽根政治の総決算をしてほしいです。

  • @渡邊利雄
    @渡邊利雄 2 месяца назад

    高校生の頃、往復を乗りました。お金が無かったので。社会人になってからは、飛行機です。やはり、飛行機のありがたみを感じました。青函連絡船は、退屈でした。唯々、耐えるだけの移動でした。

  • @kenta-z3e
    @kenta-z3e 4 месяца назад +3

    「昭和39年に津軽丸型ができた頃の人員配置は1隻30数人という想定だった。しかし、労使交渉とかの都合で1隻45人体制になり、今(取材当時)は1隻21人で回してる。だが、最初から21人で津軽丸型を回せてたんなら連絡船は黒字経営できてたはず……。」(25:3626:07)って山内船長の証言が生々し過ぎる
    どんだけ労組(特に国労)が連絡船の人員配置牛耳ってたんだよ……。😱
    これだけ見聞きすれば国鉄は労組、特に国労のワガママ三昧によって潰されたようなもんだろ……。